植民地朝鮮と〈近代の超克〉
出版社: 法政大学出版局
- 戦時期日本での「近代の超克」をめぐる議論を、同時代の植民地朝鮮との関係のなかで読み直し、帝国主義の構造を再考する画期的研究。
- 戦時期日本での「近代の超克」をめぐる議論を、同時代の植民地朝鮮との関係のなかで読み直し、一国史を超えた思想連関と、帝国主義の構造を再考する画期的研究。
- 三木清、高坂正顕、高山岩男、申南澈、金南天、朴致祐などの転換期を生きた知識人たちは、いかに「近代」と向き合い、それを乗り越えようとしたのか。戦時期日本で大きな影響力をもった「近代の超克」をめぐる議論を、同時代の植民地朝鮮との関係に焦点を当てて読み直し、一国史を超えた歴史意識を剔出する。抵抗か協力かという二元論的な枠組みを問いに付し、帝国主義の構造を再考する画期的な試み。
- 序 章 転換期の歴史意識と思考──一九三〇~四〇年代、植民地朝鮮と〈近代の超克〉
第1節 問題の所在
1 「抵抗」と「協力」のはざまで
2 「転換期」という視座
3 植民地朝鮮と〈近代の超克〉
第2節 研究の動向および課題
第3節 本書の構成
第1章 〈民族〉という陥穽──「東亜協同体」‐「内鮮一体」論と植民地朝鮮
第1節 戦時期における「東亜協同体」‐「内鮮一体」論の擡頭
第2節 昭和研究会・東亜協同体論・植民地朝鮮
第3節 変奏する東亜協同体論──朝鮮知識人の「共鳴」
1 「徹底的内鮮一体」論のパラドクス
2 「協和的内鮮一体」論のパラドクス
第2章 「世界史の哲学」の蹉跌──三木清と高山岩男の異/同
第1節 二つの「世界史の哲学」
第2節 「世界史的立場と日本」グループの「世界史の哲学」──高山岩男を中心に
1 「多元論的自覚を媒介した一元論」
2 高山岩男の「世界史の哲学」と「日本的世界史」
3 新たな世界の原理──「家の精神」
第3節 二つの「世界史の哲学」の異/同
1 三木清の東亜協同体論のゆくえ
2 「世界史的必然性」の淵源──世界的な日本文化の内実
第3章 「世界史の哲学」のアポリア──植民地朝鮮の不在/存在
第1節 「世界史の哲学」と植民地朝鮮という問い
第2節 「世界史の哲学」における朝鮮の破片
第3節 「世界史の哲学」のアポリア──対談「民族の哲学」をめぐって
1 「民族の哲学」をめぐる高坂正顕と三木清の相違
2 「民族の哲学」と朝鮮民族
第4節 沈黙の叫び──中絶された徐寅植の「世界史の哲学」
第4章 〈東洋〉の射程──申南澈の歴史哲学のゆくえ
第1節 一九三〇年代、「東洋」の(再)発見と植民地朝鮮
第2節 申南澈の〈東洋〉論における異同
1 当為としての「東洋」──一九三四年
2 方法としての「東洋」──一九四二年
第3節 〈東洋〉論のねらい──道徳的全体=「国家」と〈自由なる個人〉
第5章 憂鬱な種蒔く人──金南天の小説実践と〈歴史〉
第1節 転換期の克服と小説実践
1 可能性としての歴史と「真摯なリアリズム」
2 個人と社会の弁証法
第2節 座礁した「クレアタ・エト・クレアンス」──「浪費」について
第3節 麦/人間の〈歴史〉──「経営」「麦」について
1 個人と社会の相克、あるいは統一
2 李観亨と崔武卿/呉時亨の「齟齬」
第4節 憂鬱な種蒔く人
第6章 「学」と「思想」のあわいで──朴致祐「東亜協同体論の一省察」再読
第1節 方法としての「学」(theoria)と「思想」(ism)
第2節 「哲学すること」(Philosophieren)における傍点の移動
第3節 朝鮮の「宿命」、植民地の「運命」──「東亜協同体論の一省察」再読
1 学的内容──「弁証法的な全体主義」
2 思想的効用──「内鮮一体」論との間隔
第7章 すれ違う運命──三木清と朴致祐の歴史哲学における〈非合理的なもの〉の位相
第1節 〈出会い〉と〈別れ〉のトポロジー
第2節 危機意識と主体の哲学
第3節 東亜協同体の建設における「神話」をめぐる齟齬
第4節 必然と偶然、そして運命
第5節 〈非合理的なもの〉と〈合理的なもの〉のあわい──「主体」への躊躇
終 章 歴史に佇む──〈躊躇〉の余白
第1節 終わりなき転換期
第2節 〈開かれたナショナリズム〉の誘惑──「民族」というジレンマ
第3節 「抵抗」と「協力」を超えて
第4節 方法としての「近代」──〈躊躇〉の余白
あとがき
初出一覧
参考文献
事項索引
人名索引