弥彦と啄木 日露戦後の日本と二人の青年

弥彦と啄木 日露戦後の日本と二人の青年

出版社: 芙蓉書房出版
著者: 内藤 一成
  • 明治19年(1886)2月に生まれた三島弥彦と石川啄木。この二人の青年が同じ日同じ東京で何を見たのか。
  • 明治19年(1886)2月、おなじ年のおなじ月に生まれた二人の青年、三島弥彦と石川啄木。満22歳の明治41年の日記1年分から興味深い内容や特筆事項を月ごとに摘出し、これに解説を加えて時代の一端を描く。
  • 明治19年(1886)2月、おなじ年のおなじ月に生まれた二人の青年、三島弥彦と石川啄木。満22歳の明治41年の日記1年分から興味深い内容や特筆事項を月ごとに摘出し、これに解説を加えて時代の一端を描く。
    三島弥彦とは……
    華族の子弟として東京に生まれ、学習院から東京帝国大学に進学。のちに日本が初めて参加した近代オリンピックである1912年のストックホルム大会に出場。日の丸アスリート第一号として知られる。
    石川啄木とは……
    岩手県で僧侶の子として生まれ、貧苦の境涯で知られるが、今日ではその名を知らぬ人はいない国民的歌人。
    上流階級の出身で東京帝国大学学生という恵まれた環境にあった「三島弥彦」、高等教育機関への進学の道を閉ざされ、生活に追われる「石川啄木」。直接の交流はない対極的な二人の言動を歴史学的アプローチで分析し、政治・経済・社会・文化などさまざまな角度から日露戦争後の時代の雰囲気や空気感を伝える。
    明治41年は、啄木が文学による立身をめざして4月に上京、本郷に下宿し千駄ヶ谷の与謝野邸(新詩社)に通っている。一方弥彦は千駄ヶ谷の自宅と大学のある本郷の間を日々往復している。二人はあるいはどこかですれ違っていたかもしれない。
    一般的な研究書、解説付きの史料集、いわゆる歴史読み物、いずれとも異なる叙述スタイルの本。
    ■明治41年日記の内容は……
    1月/帝大学生の弥彦は年始をスケート合宿の諏訪湖で、啄木は生活に追われながら小樽で迎えた。
    2月/学業とスポーツに明け暮れる弥彦に対し、啄木は寒さ厳しい釧路で新聞記者生活を始めた。
    3月/弥彦の日記は大学、牛鍋、浪花節、スポーツの話題が多い。啄木は複数の女性と恋愛し、まさに「モテキ突入」だった。
    4月/弥彦は、三島家がモデルの芝居「不如帰」を見たり、学習院の小運動会に出場。啄木は、文筆で生計を立てるべく上京、千駄ヶ谷の与謝野寛・晶子夫妻を訪ねている。
    6月/啄木は、期待した小説の売り込みが不調で悶々とした日々を送る。失意の中、女性関係で気を紛らわす。
    7月/弥彦は、学習院の游泳演習合宿に助手として参加。将来の見通しがまったく立たない啄木は、金田一京助のあつい友情に救われる。
    8月/弥彦は、夏休みに三島家が開拓に関わった那須野が原を訪れる。啄木は、東京にとどまり暑さに喘いでいる。女義太夫に夢中になり以後寄席に通いつづける。
    9月/弥彦は、政治学科より経済学科へ転科。活動写真や観劇によく出かけ、来日したワシントン大学野球部と早大の試合で審判を務める。啄木は、依然として暗いトンネルのなかにある。金田一の援助で下宿を転居。
    10月/弥彦の日記は野球の審判をはじめ運動一色である。啄木は、東京毎日新聞の小説の連載が舞い込む。
    11月/弥彦は、東京倶楽部の一員として米国職業野球団と対戦。大学の講義、陸上競技の練習に熱中。啄木は、小説「鳥影」が東京毎日新聞で連載開始。収入にも目途がつき、精神的には充足を高めつつある。
    12月/弥彦は、学習院のクロスカントリーレースに選手として参加。年末は諏訪湖でスケート。啄木は、新雑誌『スバル』に掲載予定の小説の執筆。
    ◎弥彦は、スケート合宿に始まり、一年を経てふたたび諏訪湖へもどっている。日記の記述からはループ感に感慨をおぼえている様子がうかがえるが、新しい年も運動と学業に明け暮れるのだろうという予感も含まれていそうである。
    ◎啄木は、北海道小樽から釧路、そして東京と大きく移動し、境遇も失業者から釧路新聞の花形記者、さらにこれを擲ち専業作家をめざす悪戦苦闘の日々へと変化している。まさに疾風怒濤の一年であった。最後は念願であった新聞小説の連載が叶ったのは何よりであった。
  • はじめに―日露戦後の日本と二人の青年―
    序章 三島弥彦と石川啄木、それぞれの風貌
    一月~十二月の日記(弥彦日記と啄木日記)と解説
    おわりに
    地図(本郷三丁目周辺地図、千駄ヶ谷周辺地図、釧路周辺地図)
    参考文献、写真・図版提供者、出典文献一覧
    あとがき

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